✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

9/20(木) ②原発支持者にはふたとおりいて、それぞれの理由がある。

昨日コメント欄に書いたこと。

これは日本だけではなく、世界中のどんな国のどんな社会体制にも共通していることだけど、死語となりつつある“右翼”しそうと呼んでもいいし、ナショナリズムと呼んでもいいし、国粋主義、帝国主義、共産主義、社会主義、そしてもちろん資本主義も民主主義も、なんでもいいんだけれど、そうした政治的グループの最右翼にいるのは、イデオロギーもしくは熱狂的なナショナリズムに燃えた人々。

 

彼らは国家によって正義を叩き込まれ、おのれの命を賭して敵と戦う、いわば純粋な理想に燃えた人々とも言える(職業軍人や志願兵などの場合)。

 

ところが一方では、そうした人間を利用して、陰で金儲けをたくらむ連中が、古今東西いついかなる時代においても、厳然と存在する。

 

たとえば満州国が理念としてかかげた「五族協和」。

これはもちろん、日本の軍部のひとりよがりの理想であって、中国人にしてみれば迷惑この上ない思想なのだが、軍部に言わせれば、西洋列強に屈し、それらをはねのけられない朝鮮も中国も、頼むに足りない。

鬼畜米英を倒すには、我々帝国日本がアジア民族のリーダーとして君臨し、西洋列強の植民地と成り下がったアジアの国々を統率していかねばならない。

そのためには資源が必要で、米英と正面から戦うにはなくてはならないものだから、リーダーたる日本がそれを管理してなにが悪いという理屈となる。

 

お気づきだろうが、この「資源の獲得」の部分に、金の亡者が集まってくるのは必然で、日本の財閥は、満州鉄道に代表されるように、満州国から徹底的に利権をむしりとったのである。

 

これは原発問題にもまったく当てはまる問題であって、原子力や放射能を平和利用しようとする純粋な学者がいる一方、アメリカの成功を見て、これは金になると、政財界が一丸となって、原子力発電を推し進めたのである。

「原子力ムラ」は、ここから始まる。

 

こうなってしまうと、日本の侵略戦争と同様、システムの崩壊か、あるいは科学的な致命傷か、なにか決定的に破綻が訪れない限り「止まらない」。

(ついカルビーのかっばえびせんの歌を歌ってしまう小生は誠に不謹慎)

 

日本の敗戦が濃厚となり、学徒動員で鉄砲すら持たせない丸腰で最前線に送り込んだり、あるいは特攻隊などで肉弾攻撃をさせたり、帝国海軍の象徴であった戦艦大和を単騎沖縄に突っ込ませたり、沖縄のひめゆり学徒隊に自殺を命じたり、グアムなど各所で足手まといになるからと婦女子を殺したり、ふつうの神経だったらとてもやらないようなことをやり続けたのである。天皇陛下が忍びなきを忍びと、全国民に敗戦を宣言するまで……。

 

原発もだから、なにか破綻が起こらない限り、まず止まることはないだろう。

今回の福島原発事故が大変な損害をもたらし、放射能がまき散らされても、それでは足りないのである。

原発推進者の金銭欲に歯止めをかけるには、一般国民がもっと血を流さないといけないのである。

だから僕は、福島の浪江町などではなく、東京が同じような目にあっていたらと願わざるを得なかった。

東京に電力を送るために、ふるさとを踏みにじられ、いまだに住み慣れた土地に帰れない人がたくさんいる。

あのレベルが、福島ではなく東京のど真ん中で起きていたらどうなったか。さすがの原発推進主義者も、経団連の永倉(住友化学)も、経済同友会の長谷川(武田薬品)も、日本商工会議所の岡村(東芝)も、沈黙せざるをえなかっただろう。

 

そう理解していくと、石原都知事がなぜ、

原発ゼロは反対。しかしこんなにたくさん要らない」

という一見矛盾したスタンスをとるのか見えてくる。

つまり石原都知事は、あくまで国粋主義者として、いつでもプルトニウム爆弾を作れるだけの原発は確保しておけ。しかし原発すべてが必要というわけではないと主張しているわけであって、彼の中ではまったく矛盾していないのである。

ここが、先日の経済団体3人とは大きく異なるところで、ここに思想的確信犯と、何百人か犠牲は出たとしても金儲けをしようとするグループとが、ふた通り存在するという構図が見えてくるのである。

(知人の作家が、石原都知事が嫌いなあまり、この辺りを区別できなかったのはとても残念だった。三国人発言など過激な言葉を吐いている過去が憎いばかりに、ある意味では統制的な原発維持を唱える石原が100パーセント許せなかったのだろう。しかし、日本人が成熟しているというなら、「敵の敵は味方」という作戦をとることも、大人としては必要なのではないだろうか。石原キライだけど (-ω-;)