✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

なんだか日本女子バレーがつまらなく感じて・・・・・・

昨日から女子バレーを見ていたのだが、あまりにもわくわく感に欠ける感じがして、NETFLIXでオリジナル映画を見ていた。

僕がもっと若かった頃、あんなに手に汗握って応援していたのになんでだろうと不思議に思う。

もしかすると、新しいスポーツが互いに競争をして、或いは日本人の趣味嗜好が変わって、興奮するスポーツも変わってしまったのかも知れない。

 

昔は陸上競技というのは、マラソン以外はほとんど注目もされず、100メートル競走だってどこかで、

(どうせ日本人が勝てるわけないんだろ?)

と、ざっと結果まで見ては、柔道だとか重量挙げだとか、他のスポーツに関心が移ってしまっていたような気がする。

 

ところがその陸上競技、いつからこんなことになっていたのか、俄然面白くなっているではないか。

昔は100メートル競走とマラソンだけ見れば良しで、400メートルだの200メートルだのほとんど関心がなかったが、今ではどの競技を見ても面白い。

選手の層が厚くなったことがいちばん大きいのだろうが、じゃあいつの間にこんなに選手が育ってたんだか不思議でならない。

 

あとは、スケボーとかサーフィン、ボルダリング、カヌーなどの新興のスポーツがわっと花開いた感があって、スポーツを見る目が拡散し、それぞれの好みのスポーツ、というのが数そろったこともあるだろう。

昔、夏は海、冬はスキーと、日本人の大半が大移動をしていた時代がいつの間にか終わってしまい、スキー場は閑古鳥、皮膚がんが言われ始めた影響もあって、海で肌を焼くなんてことは好きな人だけやってという感じで、日本人それぞれが好みを選べる時代にはいったということも言えるだろう。

これは、経済一流・政治三流とか言われていた時代の経済の恩恵が、少しずつ社会に深く広く浸透していったことが最大の要因だろう。

つまりは、スポーツも食べ物も旅行先も、いろいろなチョイスのできるとても贅沢な時代になったということである。

いや、贅沢ではあるけれども、日本の場合はすでに短い成熟期を経て、すでに老境の域に入りつつあるが・・・・・・

このままヨーロッパの先進各国のように落ち着いた国作りへとソフトランディングができなければ、また元の木阿弥で、がらがらと急斜面を転げ落ちて行ってしまい、欧米に追いつけ追い越せと必死だった時代に逆戻り、なんてことだってあるかも知れない。

 

すでに老人の数は異常なほど多く(僕ももうちょいでガラクタだ)、土地の値段は銀座などの商業地域以外はどんどんと落ちていく一方だし(もちろん人口減で若者がいなくなった&一人っ子、ひとり娘の結婚で、両家のご両親の家がどちらか一軒すっかり空いてしまうということ、高いローンを抱えて一生同じ会社で勤めていくなんて考えられない時代になってきた、不透明な時代には賃貸でいつでも移動可能な状態にしておいた方がリスクが少ないという意識に変わってきた若者たちなど、要素はいろいろとからまりあっている)、今ほど流動的な時代というのはめったにないことではないだろうか。

歴史を振り返ってみても、大東亜戦争(と呼んであげたい。戦死した今の老人たちの父親世代《ひいお爺ちゃん、ひいひいお爺ちゃん──カラムーチョじゃないぞ──ってことになるんだよな・・・・・・僕にとってはふつうにお爺ちゃん(祖父)だったんだけど》というのは別として、この戦争は正しいと信じて死んでいったおじいちゃんたちを尊重してあげたい気持ちから。大東亜戦争と正しく呼べ! というどこかの右翼ではありません)

とか、結局はその引き金となった明治維新であるとか(明治維新は正しくて、昭和の軍部はたまたま出来てしまった鬼胎(きたい。この字を使ってたかなあ・・・・・・鬼を孕んだという意味で使っていたんだけど)であって、あれは特別な存在であって、明治維新を穢すことにはちっともなりませんみたいな。それじゃ言い訳じゃんとして、僕が司馬遼太郎に首をかしげる唯一のこと)

とか、徳川が天下を獲った時とか、天武天皇天智天皇に逆らって大友の皇子を弑し他奉った時とか(わけわかんねーよ)、そうした時代の大変革期に、僕らは生きているのかも知れない。目撃しているのかも知れない。

 

大変革が起こる前というのは、選択肢というのが制限なく現れる。

というより、世の中が混沌としてきて、それまではタブーとされてきたことを選択しても平気になったということなのかも知れないが。

 

そうした場合に恐いのは、その人それぞれの選択の仕方によって、場合によっては次の時代で上流階級まで登れるかも知れないが、選択を誤れば奈落の底という地獄と一直線の選択の自由。

言わばいぢわるな神様がばらまいた撒き餌のようなもの。

 

比較的新しきは、バブル崩壊期を見ればよくわかる。

当時何万円も何十万円もするドン・ペリニヨンを自分の結婚式の引き出物として数百人にばらまいたり、超高層ビルに住んで下界を睥睨したり、伊豆だの軽井沢だのに超高級な別荘を建てたり、なんだか今のヒルズ族を彷彿とさせる雰囲気がある。

(歴史は繰り返すではないが、ヒルズ族はいずれ全面的にダメになる時代が来ると思う。それは難しい理屈はこねずとも、単純に大地震で東京がやられて、辺り一面火の海となり、超高層ビルに住む人間たちは蒸し焼きになって死ぬとか防災の専門家が恐ろしい発言をしていたけど、そうやっ全滅しちゃうとかね。そういう場合も含めてだけど、超高層ビルに住むことにしたのもま、自分が選択したということに変わりはない。同じ賃貸でも、郊外の平屋を選んだからこそ、家族全員が助かったなんてことがあるかも知れない。それらもまた、選択の自由なのだが、ふだん出来ないとあきらめていたことが、混沌とした時代になると、選択肢のひとつとして、急に浮かび上がってくるということもあり得るのだ。

危機感を抱いたヒルズ族がみんなどんどん逃げ出しちゃって、賃貸料がガクンと安くなったりとか、とにかく何が起きるか分からない時代がいずれ訪れる)

 

さてまたもやお得意の妄想で話がバンバン飛んでいってしまったが、言いたかったことは、スポーツにも混沌とした競争の時代が訪れていて、以前だったら見向きもされなかったスポーツに照明が当たっているということなのかも知れない。

その中で、女子バレーというのは、確実に負け組に入ってしまったのではないか。

ちょっと前の陸上競技や、テニスの大阪なおみ選手を、家にいながらにして声を上げながら応援した人間たちは、もう疲れちゃったのかも。

今さら女子バレーを前にして、冷凍えだまめを解凍してキンキンに冷えたビールとコンビニで買ってきたおつまみを万全の構えで用意して、50インチもあるようなプラズマテレビの前で陣取るなんて、なんだか時代にそぐわなくなってしまった気がする。

 

あのブロ野球ですら、観客の最低でも半分はサッカーに持って行かれてしまったのだ。

女子バレーに興奮しない人種が増えても不思議でもなんでもないし、それどころか勝ち組であるサッカーだのサーフィンだのスケボーだのといったスポーツの新興勢力だって、あと5年10年したら、eスポーツに滅ぼされちゃってる可能性だって否定はできないのだから。

 

ああ、大阪なおみちゃんの、あの体格や顔つきからは想像もつかないような、女の子特有の優しさに満ちた声を、いつまでも聞いていたい(^◇^;)。

ママさんじゃなくてね。